痛感

 やっと終わった。本格的な作業に1ヵ月、その準備には約2ヶ月、そもそもゼロの状態から数えると丸1年。やっと1つの節目にたどり着いた。現実と自分の知識の無さを思い知り、終盤にはかなりシビアなやり取りもあった。しかしこの一連の活動を通して(良くも悪くも)多くのことを私たちは痛感した。
 一連の活動とは、いつも金を出して買っているものを、自分で作ってみるというもの。それも多くの時間や金、そして労力を掛けてだ。
 最初の作業は創造すること。ひたすら頭の中の作業。イメージである。この作業が出発点であり、全体の良し悪しの70%がここで決まる。この作業においてはとにかく鮮度が命。時間が経つと、どうしても無駄な感情が入ってしまい、いい結果はまず望めない。
 2番目はアウトプット。フィールドを頭の中から外に移す作業。この辺から技術も徐々に介入し、現実と対面することもしばしば。また個人的な作業もここまでとなる。いわゆる共有という壁が現れるのだ。自分の脳みそで起こっていることを他人に伝える。たやすいことではない。
 そして熟成の時期。真空パックさせた感情やイマジネーションを技術や知識・感性をもって練る作業。思えばこの作業が1番楽しかった。ちょうどブロックを組み立てるような、それでいて単純な作業ではなく知的で刺激的な時間。
 しかし何事にも仕上げは必要。頭の中で固め、常温で時間をかけて練り引き伸ばした生地も箱に詰めなければ意味が無い。そもそもこの箱詰めがこの活動の最大の目的なのだ。箱に詰めるということは、ごまかしがきかなくなるということであり、どんな言い訳もここでは無力になる。だが、この一年の活動を証明してくれるのもこの箱なのである(もっとも今回使用した箱は円盤型をしていたが)。
 そうして完成したこの記録物の中の一節に『いつでも俺が証明してやる 成功など何の意味も無いことを』という内容の叙述がある。そして今、私は本当にこの表現が正しいと痛感している。妥協は山のようにあり、もしかすると後悔の数もそれに等しいのかもしれない。けれどもこの1年間の活動は事実であり、それを証明するモノも私たちにはある。それだけで充分事は足りる。私たち3人は何ものにも代えられないGolden Timeを手に入れたのだ。